良い推しの日

今日は良い推しの日らしいので、私にとっての”推し”という概念について色々と考えたことを書いていきます。思ったより暗くなりました。ご注意ください

私は中々好きな人間やキャラクターのことを”推し”と呼べません。私の中で”好き”と”推し”は違うもので、好きだけど推しではないキャラクターがたくさんいます。

私が軽率に推しと言えないのは、愛が足りなくてガチ勢の人に申し訳ないなと思ってしまうからです。

例えば同じAというキャラクターが好きな人でも、「この作品の中でだったらAが一番好きかな~」という人や「寝ても醒めてもAのことを考えていて情緒を握られている」という人が居て、自分が前者の場合、「Aが推しです!」なんて名乗るのはなんだかおこがましく感じます。

ツイッターというのは面白くも恐ろしい場所で、異常な熱量を持ってキャラクターや作品に向き合っているオタクがゴロゴロ居ます。そういうオタクを見るのが好きでツイッターをやっている節もあるのですが、その人達の前で「同じキャラが推しです!」とは中々言えないのです。

あとは純粋なプラス感情だけ持っている訳では無いこととか解釈が足りてないとかがあります。

純粋なプラス感情だけじゃないというのは「別にそれについてはどうでもいいな」と思っていたり、その人に対して敬意が足りなかったりすることです。最低ですね。

解釈が足りてない問題はキャラクターについてしか起こりません。そりゃそうだろ。

私の頭が弱いので、そのキャラクターがどういう気持ちでそういう行動を起こしているのか分からない時が稀によくあります。理解力が足りない。辛いね。

私が自分で”推し”と呼べる存在は「全てが好き」「幸せになって欲しい」「心から応援できる」といった気持ちがとても強い存在だと思っています。特に「応援したい」という感情が強いのが”推し”かな。

う~~ん言語化が難しいな、情緒を握られている応援したい存在とでもしておこう。

正直”推し”と”好き”の線引きを自分でもできていないのでこれからも色々と考えていこうと思います。

これはとりあえず現時点ではこんな考えだよ!というメモのようなもの。

私はこの”推し”という言葉の定義に割と悩んでいて、一日中そのキャラクターのことを考えたり、その作品に触れていなくてもふとした拍子に好きな所を思い出すくらい大好きなキャラクターでも”推し”と呼べないことがあったり、同じキャラクターのことでも時によって”推し”と呼んだり呼ばなかったりすることがあったりします。めんどくさい女ですね。

やっぱり推しと好きの違いは応援の気持ち有無な気がしてきましたした。私のこの推しと呼べないめんどくさい病の原因は私自身があまり応援しないことだと思います。うん、きっとそうだ、そうに違いない。

なぜあまり応援しないかというと私の言葉ごときで他人の何かが変わると思えないからです。

だって結局他人の人生で、どうしたいかなんてその人自身が決めることじゃん?私がその人の何かを変えれるなんて一ミリも思えないんだよなぁ…

別に頑張ってほしいという気持ちがない訳ではないんだけど既に大勢の人に応援されてる人の所に私一人の声が加わったところでなぁ…と思ってしまうんですよね。

…最低だな。

なんだかとても暗い話になってしまいました。多分疲れてるんだと思います。(疲れてるならブログ書くなよ…)あと文章が下手。(それはいつも)

推しか推しでないかは私の感覚で決めているのでその感覚をなんとか今日中に言語化したかったんです。せっかく良い推しの日だから。結局の所、情緒を握られていて、クソデカプラス感情を向けているものが推しだとは思うんだけど、もっとこう詳しい言葉にしたかったんだ。上手くいかなかったけれど。

やっぱり感情の言語化というのはとても難しいですねもっと上手く書けるように頑張っていこうとおもいます。

 

待って!!!!!!!今日は良いお尻の日でもあるらしいですよ!!!!!!私は胸派なので興味が無いですね!!!!!!!!!!!ハイ解散!!!!!!!!!!!!!!!

 

2020/11/4/1686文字